BokuNenJin’s blog

英文学専攻の大学生。文学作品を自分なりに解釈して、ブログを書いてみる。

『Serial Experiments Lain』

『Serial Experiments Lain』は、1990年代末に公開された、アニメ作品とゲーム作品のタイトル。今日は、この作品を土台に自分が考えたことを書く。

 

ゲーム版は、おもに主人公のレイン(今回は、表記はこれで統一する)と精神科医の柊子の日記を見ていく、という珍しい形式になっている。YouTubeにゲーム版の動画がある。六時間ほどあるが、暇なら見て欲しい。見る人によって解釈が変わってくると思う。ゲーム→アニメの順番で鑑賞することをお勧めする。

 

またはこのサイトにデータが入っている。

lain game :: site A

 

今回はゲーム版を中心に見て行く。lainは日記形式のゲームなので、時系列が曖昧な事や、客観的な事実が分からないという特徴がある。だから多様な解釈ができる。今回はlainを観たうえで、「存在」と「人間とは何か」という二つのテーマについて「哲学し」てみようと思う。この二つのテーマは、倫理を考えるうえで重要なものとなるだろう。

 

【その一】

まずは、「人間」の方から。ひとりの人間とは何なのか、考えてみる。

 

1.肉体からのアプローチ

最も考えやすいのは肉体だろう。臓器や骨、筋肉などが思い浮かぶ。では髪の毛や死んだ細胞である角質もその人の一部と言えるだろうか?人間の食道は一本の管になっている。つまりドーナツのように穴が空いてる。そこに住んでいる腸内細菌はその人本人に含まれるだろうか?(腸内細菌は自分の細胞よりも"外側"にあるにもかかわらず、腸内細菌が居なければ人間は生きていく事は出来ない。)

 

私は、これらの物もすべて肉体の一部であると考える。

肉体には二つの側面がある。一つは実在としての肉体。もう一つは現象としての肉体だ。

 

実在としての肉体は、普段私たちが想像する、今この瞬間の細胞、骨、血液、毛などの物体の塊だ。こちらはイメージが付きやすいと思う。

 

一方で現象としての肉体とは何か。私たちの身体は、変わっていないようで日々変化している。5年もすれば細胞や骨、血液などの全ては入れ替わり、今のあなたはすべて消えているだろう。それでもあなたの肉体があなたの肉体であり続けるのは、肉体が現象としての側面を持っているからだ。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。

 

肉体の条件は、循環している事だ。肉体とは、単なる物質の塊ではなく、栄養素を取り込み、老廃物を排出し、全体としてバランスを取るシステムだ(世間一般で使われている定義と差支えがなく、明快な定義だと思う)。それが自立していれば一つの生命と言うことも出来る。

 

たとえ植物やクラゲのように脳を持たないような生物であっても、神経やその他の働きで循環が行われている場合は命として認められると考える。ただし、ここで言う「命」は何か有難いものだとか、権利があるものだとか、そういった文脈ではなく、あくまでも定義の話。これからの文章が論理的になる為の土台。

 

メタファーを使うなら、実在としての肉体は水、現象としての肉体は川である。

 

今日は「肉体」という言葉をよく使うと思ったので、ここを確認しておきたかった。今回は実在としての肉体を扱うが、現象としての側面がある事も気にかけたい。

 

2.精神からのアプローチ

肉体からの説明では不十分な要素がある。それが、「わたし」だ。一般的に「魂」とか「精神」とか「理性」とか言われるような、いつもあなたの(頭の)中でぶつぶつ喋っている「あなた」だ。思考したり判断を下したりしていると考えられている何か、だ。どこにあるのかよく分からないけど、確かにそこにあるような「何か」だ。伝わっただろうか。

 

今回はこれを「自我」と呼ぶ。言葉の使い方としてもふさわしい気がする。

 

先に言っておくと、「自我」に対する私の見方は、少し変わっている、のではないかと思う。だが、私は誤りのない確からしい仮説を用意したつもりだ。

 

肉体がはっきりと存在する(「実在」と呼ぶ)ものであったのに対し、「自我」は存在するかが曖昧である。確かにあなたはあなたの自我を認識できるし、私も私の自我をはっきりと認識できる。だが、客観的には確かめられない。「客観」が何を指すのかも微妙なので何とも言えないところではあるのだが。。

 

では、「自我」とは何だろうか。私なら「肉体が生み出す像」と定義する。スクリーンに投影される映像のように触ったり干渉したりは出来ないが、そこにあるかのように視えている。このメタファーならば肉体はフィルムだ。フィルムは触って干渉できる。

 

このメタファーは観客やスクリーンが何なのかという説明が出来ず、完全ではないのだが、イメージを伝えるのに役立つことを祈る。

 

このようにして考えていくと、現代の一般常識とのズレが生まれる。この仮説では、人間は自我無しでも動けるのだ。スクリーンが無くてもフィルムが回せるように。私たちは(自我で)考えて行動していると信じられている。だが実際には、行動した後で考えているのではないだろうか。

 

つまり、この仮説は自由意志を否定する。

 

私は、現時点では自由意志を完全否定できるわけでは無いが、一部の事象については確実に否定できる。例えば、野球のバッターは「打とう」という自我による意思・判断の前に神経が動き、バットを振り始めている、という実験があるそうだ。それから脊椎反射のような限定的なもの。

 

そして、私が自由意志を否定したくなる最も大きな理由は、生成AIにある。AIは、人間と同じような振る舞いをする。しかしAIは思考しているのではなく、過去のデータから確率を求めているだけだ。

 

例えばもし、人間の脳(脳に限らず、肉体)が過去の経験に基づいて神経の形を変えて学習・行動しているだけだとしたら、そこに自我が介入する余地はなく、人間の行動は肉体のみが決定しているという事にならないだろうか。自我は単なる像に過ぎず、行動に干渉する力はない。

 

これは、lainで言う所の思考ルーティンだ。思考ルーティンは肉体の方に記録として保存されているのであって、自我に記憶されているわけでは無いだろう。したがって、「思考」とはあくまでも神経物質の伝達に過ぎず、自我が葛藤を起こすようなあの感覚は後付けの像、おまけであると考えられる。

 

3.「人間」って何だろうか

このように、人間には肉体と自我という二つの側面から成り立っている。肉体は実在し、自我は像として存在する。どちらが人間の本質か、という議論はナンセンスで、どちらも人間の要素である。

 

これが、現在の私の、人間の捉え方だ。あまりlainの話は出さなかったが、確実に影響を受けているのではないかと思っている。

 

【その二】

次に、「存在」について。特に、「他者の存在」について。

 

1.死人とイマジナリー・フレンド

さて、次はもっとlainにフォーカスして、存在に関する面白いと思った箇所を具体的に取り上げてみようと思う。

 

Site B, Level 6: 柊子は、高嶋という上司から嫌がらせを受けていた。あるとき高嶋は自殺(?)をした。その後、カウンセリングをする柊子。柊子は、レインが自分の友達だと言っていた里美が、実際には存在しないいわゆるイマジナリー・フレンドである事を指摘する。レインは里美は存在すると主張するも、物証がなく、説得力に欠けていた。柊子はレインに、体を持って存在していないと、それは幽霊だと言う。レインは、「高嶋教授は存在しなかった?」と訊く。

 

レインも柊子も、他者(死人とイマジナリー・フレンド)の存在を証明する為の方法を持ち合わせていなかった。記憶はあっても、記録がない。記録はあっても、肉体はない。複数人が知っているからと言って事実とは限らない。

 

「客観的な存在」という概念を疑ってしまうような、そんなやり取りだったと思う。

 

2.他者は自我を持っているか

こうなってくると、「自分以外の者はアンドロイドのように自我を持たず、私一人だけがこの世界で自我を持っているのだ」という独我論と呼ばれるものを考える人も出て来るかと思う。

 

だが、これはナンセンスな主張だ。大前提として、独我論は論ではない。論とは他者への証明であって、他者を否定する論はあり得ない。

 

その上で、独我論は論じ得ない。どちらに証明することもできないから。

 

私の数少ない好きな哲学者の一人に、ヴィトゲンシュタインという人がいる。彼は主著『論理哲学論考』の最後で、「論じ得ないものについては、沈黙しなくてはならない」と書いている。

 

あとは、沈黙。

 

【あとがき】

lainは面白いと思った。色んな人が考察してるから、それを見るのもまた面白い。見るのに体力を使うが、見てよかったと思える作品。

 

今日は初めてブログ上で哲学してみた。哲学することは、思索(=よく考えること)に加えてそれを表現する事も含んでいると思う。思うままに表現してしまったので、だいぶ読みづらいのかもしれない。

 

そういえば、lainを観てから日記を書き始めるようになったのだが、日記は英語でdiaryと言う。またはjournalという表現もある。この二つの主な違いは、私的であるか公的であるかの違いだ。自分だけが見る「日記」であればdiaryだし、公開する「日誌」であればjournal、と言ったところだろうか。

 

私はdiaryを書くことにこだわりがある。誰にも見せないがゆえに、自分の本心を徹底的に書き出せる。自分を着飾る必要もなく、本当の事を書ける。ただし、誰にも見せない。ブログの「日記」はjournalということになる。

 

ゲーム版lainにおいては柊子の日記もレインの日記もdiaryであり、それぞれ"T da" 、 "L da" と表記されている。だからそれぞれの本心がありのまま書かれていると考えられる。

個人的に好きな作家7選(後半戦)

↓前半はこれ↓

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ランキング形式や、厳選をする事に価値を感じなくなりました。好きなものの順番というのは、あまり意味を持たないと思うからです。これは「好き」という言葉があまりに広い意味を持つからだと考えています。ここからは、自分の好きな作品を紹介しようと思います。

【カミュ】

カミュ(1913-1960)の『異邦人』。
アルベール・カミュはフランス領であったアルジェリアで生まれた作家です。

あらすじ

『異邦人』の主人公ムルソーが母親の参列に参加する場面から物語は始まります。母親の知人たちが涙する中、ムルソーは無感動で平然としていました。ムルソーは、喪中で会社を休みになった3日間で海水浴に行くことにしました。そこで昔のパートナーと出会い、(恐らくは)性行為をし、映画館にデートに行きます。ムルソーは非常識な、非情な人間であるかのように描かれます。しかし彼の中では確固たる意志があり、彼なりの因果関係もきちんとあるようです。このギャップが作品の魅力です。
その後ムルソーは喧嘩に巻き込まれ、その結果殺人をしてしまいます。殺人の動機について、ムルソーは「それは太陽がまぶしかったからだ」と答えます。投獄された後も、彼の異常と取れる行動は続きます。「不条理文学」と言われるカミュを代表する一作。

感想

ムルソーの異常行動と、それをするに至った彼なりの理論が面白いです。一見すると理論がつながっておらず、ちぐはぐで、ただの逆張り人間のように感じられるかもしれません。しかしそうではないのです。まず、ムルソーは逆を張っているというよりも、完全に理解のできない行動をとってきます。理解のできない論理と思考を持っています。その上で、それを当たり前のように正しいと思い、当たり前のように実行しているのです。私たちのように。
 
一般的に、社会・日常生活では当たり前のように皆が同じ常識を持ち、「理性」を持ち、「思考」を持ち、何か「目的」をもって行動していると考えられがちです。私は、そういったものは信じていません。と、言うと何かヤバい思想を持ったいわゆる「思想の強い人」(※「強い」というよりも「偏った」という表現の方が適切であると常々思っていますが)のようですが、そうじゃないんです。思考や意思に関しては、やっぱりいつかまとめたいですね。
 
ここで言いたかったのは、私たちも誰かにしてみればムルソーのような、因果のつながらないような判断をしている可能性がある、ということです。自分が合理的だと思っている事も、誰かは不合理(あるいは完全に不条理)だと思っているかもしれませんし、逆に誰かの不合理(不条理)も、その人にとっては非常に合理的な、理路整然としたことなのかもしれません。
 
もしかすると私たちは、文字や音声などの「ことば」では表せないような理論(または感覚・直感)で行動しているのかもしれません。だから、行動の理由は「ことば」によって説明はできないですし、そもそも行動に理由は無いかもしれません。理由とは「ことば」なわけですから。夜になったら寝るように、太陽がまぶしかったら殺人をするのかもしれません。
 
この作品は、今までどこか一種のファンタジーに過ぎないと捉えていた「不条理文学」というジャンルが、より実際的でリアルなものなのかもしれないと感じさせてくれたものでした。ムルソーの飄々とした雰囲気を、美しいと感じたのは私だけでしょうか。最もシビれた場面は、独房に入れられたムルソーが床に置かれた金属製のバケツを眺める所です。確かこんな感じでした。
 
バケツには男がひとり写っていて、こちらを真っ直ぐに見ていた。
私はその男に微笑みかけたが、男は笑わなかった。
 
バケツに写った自分に微笑みかけたのに、実はムルソーは笑っていなかった、という事が分かる部分だと解釈しています。この場面は物語の後半の方だったのですが、これによってそれまでのムルソーの「〇〇した」という表現が実際どうであったのかと想像して、鳥肌が立ちました。主観と客観、自己と他者、普段意識される自分と、鏡の中の自分。そうしたものがごちゃごちゃになって、物語に新しい次元を与えたようです。ここは非常に印象に残りました。
 
私は『異邦人』を、大学生になる時に新潮文庫の窪田啓作 訳をブックオフで買って読みました。実を言うと、その時は大学の新しい友人にカフカが面白いと紹介されていて、読もうと思い間違えて買ってしまったんですが(笑)。ですが間違えてよかったなと、今では思っています。
 

【太宰治】

太宰治(1909-1948)の『人間失格』。あらすじは省きます。

感想

最近の言い回しをするなら、「太宰治からしか取れない栄養素がある」と言いたいです。何が好いのか、と言われると難しいのですが、太宰治はなんか好い、と思ってしまいます。キャラクターが好きなんですかね。それか文体か。適度に共感できる部分と、引き込まれる部分と。あとはリアリティと美しさでしょうか。伝えるのが難しいですが、私は太宰治の作品が好きです。ハズレを見たことは今のところないです。
 

【ゴーゴリ】

ゴーゴリ(1809-1852)の『鼻』『外套』『死せる魂』。
ニコライ・ゴーゴリはロシア帝国(地理的には現在のウクライナ)の作家。
 
彼の短編『鼻』『外套』はどちらも奇天烈な話です。まず『鼻』に関しては、朝食を食べている時に誰かの鼻がパンから出て来て、逃げる鼻を追いかけるというものです。意味が分かりませんね(笑)。研究すれば意味があるんでしょうか、私の知識では何も分かりません。でも、面白いです。『外套』は一応ホラーなんですかね。怪談話のような物だと思います。非常に貧しそうな雰囲気が好きです。
 
そして長編『死せる魂』。Copilotにあらすじを書かせます。

あらすじ

 主人公:チチコフは中年の旅人で、農奴制の制度的抜け穴を利用する計画を立てる。彼は戸籍上は生存しているが実際には死んでいる農奴の名義を地主から買い取り、その名義を担保に融資を受けて財を成そうとする。

 チチコフは各地の個性的で堕落した地主たち(マニーロフ、コローボチカ、ノズドリョフ、ソバケーヴィチなど)と交渉を重ね、彼らの醜態や人間性の欠如が露呈する。これにより物語は風刺的な人物画の連続となる。

 最終的に噂や敵対により計画は頓挫し、チチコフは逃亡や逮捕の危機に直面する。第2部ではさらに展開するはずだったが、ゴーゴリは晩年に多くの原稿を焼却し、作品は未完に終わる。

 

概ね合っています。ただ、チチコフの目論見が判明するのは物語の一番最後の部分です。色々な解説を見てみると、「堕落した人間が~」や「社会風刺」などのキーワードが出てきたのですが、私はそれには気付けませんでした。私が面白いと感じたのは、もっと単純に、死んでいる農奴を買わせてくれ、という有り得ない交渉を持ち掛ける男と、何の損もないのに訝しんでそれを断る地主のやり取りです。まるでコントや落語を見ているようで面白かったです。

感想

ゴーゴリの小説も、太宰のように何かは分からないけど惹かれる所がありあます。私は少し古めの全集を、高校生の時に図書室で借りて読んだので、誰の翻訳だったのかはよく分かりません。
 

【ドストエフスキー】

ドストエフスキー(1821-1881)の『罪と罰』。
またもや出てきました、ドストエフスキー。『罪と罰』なんてタイトル、かっこいいですよね。椎名林檎の歌にもなっていますね。椎名林檎さんもドストエフスキーが好きだと、どこかで読んだ気がします。本当かは知りませんが。バチクソ長いので、あらすじはもうええです。そういえば、中田敦彦がYouTubeで解説していましたね。それが分かりやすいので、良いかもしれません。十分面白いと思います(上から失礼します)。それはそれとして、自分で読むともっと広く深い読み方ができる作品なので、ぜひそうする事をお勧めします。

感想

『罪と罰』は、とにかく主人公が魅力的だと思いました。ラスコーリニコフ君。貧乏大学生。自分を天才だと思っています。実際計画性は高く、狡猾な男です。しかし非常に神経質で、メランコリーな一面もあります。自分のプランや思想に絶対的な自信を持ちつつも、それを実行する勇気に乏しく、「思想」(殺人は許される)と「良心」(殺人は駄目だ)の間で葛藤します。私は、私こそがラスコーリニコフだ!!!と思ったのを覚えています。理由は忘れましたが(笑)。影響を受けやすいんでしょうね、多分。カミュの『異邦人』や村上春樹を読んだ後にも、かなり変な口調になったぐらいですから。
 
 

【あとがき】

最近あまりブログ書いてませんでした。毎日書くのを一人で目標にしていたんですが、中々難しいものですね。毎日続けるのは。これからは大学も始まって、徐々に更新頻度が落ちるかなーとか思っています。まあ、気が向いたときはいっぱい書きます。書くのは意外と嫌いではないみたいなので。
 
それよりも、重大なのは、ここ最近好い本に出会えていないことです。半年くらい。何なら『カラマーゾフの兄弟』に心酔しすぎてしまったせいか、それ以降は本があまり楽しめなくなってきた気がするんです。十冊読んだら5冊はボロクソに言って、3冊はまあまあ読めるレベルとか言って、2冊だけ好かったかな、とか言うような、そんな読書生活になっている気がします。ドハマりするような本が減って来たんですね。
現代の日本の本に手を出してみようと思い、人気作家の本をブックオフでいくつか買ってみたものの、あまり楽しめないんです。
 
『美味しんぼ』の海原雄山のような頑固気質みたいで、本当に嫌なんですが、感性が固まってきてしまったという事なんでしょうか。嫌な読者ですねえ。
 
「老兵を見たら生き残りだと思え」という言葉がありますが、古典作品はある程度よいことが保証されていますよね。ある程度。現代の作品となると、大変そうだなと思います。人気作品から選ぶという事になるんでしょうか。私には少しハードルが高いかもしれません。やはりもう少し、古典の世界にこもっていようかな。。

閑話休題

X(旧Twitter)のアカウントを作ってみました。何に使うのかは未定です。

 

実は現在、Ameba、note、はてなブログの三つのサイトを使って、全く同じ内容を投稿しています。それぞれのサイトの雰囲気を見て、自分の投稿記事がどこに適しているかを探りたいからです。普段ブログ読むことも無いので、本当に探り探りやっています。

今のところ何とも言えませんが、今後投稿するサイトを絞って行こうかなと考え中です(コピペするのも面倒なので)。

 

ところで、このX(旧Twitter)っていう表現、面倒くさくないですか。日本語の場合Twitterの方が文章で見た時に分かりやすいですよね。「X」という名前は変更前にはとても嫌われている印象でしたが、今は多少定着したんでしょうか。私は「Twitter」の方が分かりやすいなーと思います。

 

そんなわけで、Twitter(現X)を始めたという報告でした。

↓アカウント↓

BokuNenJin (@BokuNenJin2665) / X

 

個人的に好きな作家7選(前半戦)

以前、傑作選ということで、誰もに刺さるであろう傑作を紹介しました。今回は、何とも言えない好さがある個人的に好きな作家を7名紹介します。

↓傑作選はこちらから↓

bokunenjin.hatenadiary.jp

 

 

【第7位】

第7位は、村上春樹(1949-)の『1Q84』『海辺のカフカ』。

村上春樹と言えば、独特な文体を持っているという印象を持たれる方が多いのではないでしょうか。確かに英語を翻訳したような文体で、読みながら調べないと分からない箇所もたくさん出てきます。

プロットが多くて大変なので、この二作品のあらすじは助手のCopilotさんに手伝ってもらいます。

『1Q84』

1984年の東京。
フィットネス講師として働く青豆は、ある日高速道路の非常階段を降りたことで、現実とよく似ているがどこかが異なる世界――“1Q84”に迷い込む。空には月が二つ浮かび、彼女の周囲では説明のつかない出来事が静かに連鎖し始める。

一方、数学講師で小説家志望の天吾は、編集者・小松の依頼で、謎めいた少女ふかえりの原稿『空気さなぎ』を書き直す仕事を引き受ける。その行為が、彼を不可思議な世界の深層へと引き込み、現実と虚構の境界が揺らぎ始める。

互いに存在を知らぬまま、青豆と天吾の人生は見えない糸で結ばれ、二つの世界の歪みが二人をゆっくりと近づけていく。
世界の“ずれ”の中で、二人は自分の選択と過去に向き合いながら、再び出会うための道を探していく。

『海辺のカフカ』

15歳の少年・田村カフカは、父の呪いのような言葉から逃れるために家を出て、四国・高松へ向かう。彼は静かな図書館に身を寄せ、司書の大島さんや館長の佐伯さんと出会い、自分の過去と運命にまつわる謎へと踏み込んでいく。

同じ頃、戦時中の不可解な事件で知能の多くを失った老人ナカタさんは、猫と話す不思議な能力を持ちながら、ある出来事をきっかけに“自分がやるべきこと”を直感し、旅に出る。その旅路は、カフカの物語と見えないところで呼応し、二つの世界はゆっくりと重なり始める。

現実と非現実、記憶と喪失、運命と自由意志が交錯する中で、カフカは自分自身の核心へと向かい、ナカタさんは世界の歪みを静かに整えていく。
二つの旅は、やがてひとつの大きな物語の円環を描く。

私が村上春樹作品の魅力は、「表現」「理不尽さ」「キャラクター」だと思います。

1.表現

村上春樹は英語から輸入してきたような独特な表現が多く、それがある場面の印象を強めることがあります。印象に残っている物のひとつは、『海辺のカフカ』の主人公の一人、ナカタさんが寝る時に使われていた表現で、「丸太のように眠」るという部分です。英語で "sleep like a log" と言うと、丸太のようにずっしりと深く眠っている様子だそうです。日本語で丸太のように、という表現はなかなか無いのて、面白いなと思った記憶があります。

2.理不尽さ

『1Q84』にも『海辺のカフカ』にも、「運命」としか言いようがないような、筋が通らない出来事というのが多く起きます。例えば『1Q84』では、青豆という主人公の一人が誰とも会っていないのに妊娠をしたり、月が二つできたりします。『海辺のカフカ』も同様で、ナカタさんの直感は現実的に考えると筋道立てて理解することはできません。

もしかすると、すべての設定に意味があるのかもしれませんが、私には理解できないため、筋道が通っていない、理不尽だ、と感じます。ですが私は、理不尽で現実離れしているからこそ、どこか現実味を感じられるのかなと思います。理不尽な事は現実でも多くあって、それを体感できるような読書体験だと私は思います。

村上春樹のファンたちのことを「ハルキスト」と言ったりしますが、私の知り合いで生粋のハルキストの人が居ます。その人によれば、『海辺のカフカ』には戦争を題材とした内容が盛り込まれているそうです。

3.キャラクター

どちらの作品にも個性的な人物が多数出てきます。人物名にも意味があるそうですが、私はあまり把握していませんでした。私が特に好きな人物は『1Q84』の青豆と『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカー、カーネル・サンダース、ナカタさんです。

青豆は、単純な話、性癖に刺さっています。多分それだけの事です。

ジョニー・ウォーカーは、見た目も相まってかっこいいなと思います。

カーネル・サンダースは、陽気なおじさんという感じで面白いです。

ナカタさんは、話し方が奇妙で、どこか魅力を感じさせる人物です。彼に影響されて、彼の好物であるあんぱんを何度か食べたこともありました。

恐らく私は村上春樹の魅力は分かり切れてない気がするのですが、彼の作品にはどこか惹かれるところがあります。

文体が苦にならない方は、読むと世界観に引き込まれるのではないかと思います。

 

【第6位】

第6位はオスカー・ワイルド(1854-1900)の『ドリアン・グレイの肖像』。

バジル・フォールウォードという画家は、ドリアン・グレイという非常に魅力的な若い男性を描く。その絵があまりに美しく出来ていた為にドリアン・グレイは「自分は老いるがこの絵は老いることが無い。私ではなくこの絵画が齢を取れば良いのに」と思ってしまう。それは現実となり、ドリアン・グレイは美貌を保ち、絵の方が老けていく。その代償に、悪行を重ねる度に絵は老け、醜く皺で歪み、意地悪な老人の顔へと近づいていく。絵画が醜くなることで、現実のドリアンの心理・行動はどのように変化するのか。現実は芸術を模倣する、という逆説的な命題が中心となった作品。

美とは何か、という事を考えさせられる作品でした。

また、ドリアン・グレイが尊敬するヘンリー・ウォトン卿という人物がいるのですが、この人物が序盤にまくし立てる皮肉が非常に面白かったです。

読み終わってはいるのですが、まだ嚙み砕いている途中なので、まだ味わいきれいていない作品です

【第5位】

第5位はカフカ(1883-1924)の『断食芸人』。

檻に入り、断食をするという見せ物を行う断食芸人。街を転々とし、その噂は広がった。一時期は一世を風靡した彼であったが、それもそう長くは続かない。インチキをしていると疑われ、飽きられ、忘れ去られていく。稼ぎを得られなくなった断食芸人は、新しく出来る仕事はもうなかったので、サーカスに雇われる事となる。しかし人気の少ない隅の、動物たちと同じような檻で断食を続ける。ある日、サーカスの監督は誰も居ない檻を見つける。なぜ檻を空のままにしているのか、と監督は尋ねる。そこである者が、断食芸人が檻の中に入っていたことを思い出した。断食芸人は床の藁の所へぐったりしていた。なぜ断食を続けるのか、と訊かれた彼は、うまいと思う食べ物がないからだ、と答えて死ぬ。

自分の芸をひたすらに見せる芸人と、群集の興味とが乖離して、芸人が没落していく様子が好かったです。意味深な最後の会話も読みどころです。非常に短い作品なので、読みやすいと思います。

私は多分、こういう頽廃的な雰囲気のある作品が好きなのかなと思っています。後半のランキングにも、似たような雰囲気の作品が多いです。

前半戦はここまで!後半戦はまた明日。

『カラマーゾフの兄弟』

【はじめに】

『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキー(1821-1881)によって書かれた、長編の小説。先日の傑作選で書いた通り、私は今のところ、これが人類の最高傑作だと思っている。

今日は『カラマーゾフの兄弟』(原卓也 訳)のあらすじや解釈、感想などを綴ろうと思う。

ロシア文学あるあるの覚えずらい名前を極力削る為に、呼称は本名で統一し、名・姓のみで書く。

↓傑作選はこちら↓

bokunenjin.hatenadiary.jp

 

【あらすじ】

主人公は、カラマーゾフ家三男のアレクセイ・カラマーゾフ。

父親のヒョードルは淫蕩家で大酒食らいでお金にがめつい、人間の欲を全て集めたような男である。長男ドミートリイはそんな父に似て淫蕩化で、女性とお金が大好きで直情的。次男イワンは冷静沈着、頭が良い。三男アレクセイはキリスト教に敬虔で、純粋な心を持ついわゆる「善人」である。父親ヒョードルと長男ドミートリイは、ある女性を取り合って大喧嘩をしていた。

町にはゾシマという長老が居り、皆に尊敬される敬虔なクリスチャンであった。彼はアレクセイの師匠でもあったが、高齢で体調があまり良くなかった。そんなゾシマ長老を憂える中、アレクセイは次男イワンから無神論について聞かされる。子供がいたるところで虐待を受けている事実があるのに、神はどうして何もしないのだ、本当は、神はいないのではないか、という話である。そして「大審問官」という、イワンの作った話を聞かせる。イエスが異端審問官によって異端と宣言され、火刑に処されるという内容だ。アレクセイはイワンの正気を疑う。神は善悪の基準であったからだ。もしも神が居ないのであれば、善悪は存在しない。イワンは、続けて父親の殺人について言及する。あんなクソ親父は、殺してもいいのではないか、と。

そんな中、ゾシマ長老は老衰して死んだ。キリスト教的な考え方では、死んだ人の魂は最後の審判で裁かれる。そして善人(聖人)であれば肉体は腐敗しないと考えられていた。しかしゾシマ長老の死体から腐臭がしはじめた。アレクセイは神というものに疑念を抱くようになる。

父親ヒョードルと長男ドミートリイの争い、ゾシマ長老の死、イワンの無神論などを目にして、アレクセイはどのように考えるのか。

 

 

【解釈】

これ以降は読み終わった人向けの内容。『カラマーゾフの兄弟』を高く評価する理由を説明する。
 
文学の意義の一つは問いかける事である。『カラマーゾフの兄弟』において問われている事は何だろうか。
それは「神はいるのか」という疑問だ。さらに言えば「不死が無ければ善行はない」というイワンの主張の是非だ。
自分は最初から神を信じていないから関係ない、と思っただろうか。そんな事は決してない。「神」とはは善悪の基準を定める物として描かれている。あなたにとっては、マナーや道徳、法律、文化などがそれにあたるかもしれない。
宗教の世界では、「罪業」(sin)を行えば罰(ばち)が当たる。「非宗教」の世界では「罪」(crime)を犯せば罰(ばつ)が下る。
「ばちは実際にはあたらないけど、ばつは実際に下るじゃないか」という主張が聞こえてきそうである。そういうことではない。ここで重要なのは、ある罪には罰が下されると「信じている」という事だ。ばつとばち、sinとcrimeは構造上は同じなのだ。
そこでもう一度問うてみる。善とは何だろうか、悪とは何だろうか。それは外部には無く、個人の中にしかない。すべては許される。では、何をしてもよいのか。結論はそうではない。これ以上は『カラマーゾフの兄弟』を越えてしまう。哲学と倫理の記事でまた語りたい。
この作品は、人間にとって根源的な謎である「善悪と正義」や「幸福」、もしかすると人間に関する「すべての謎」、を考える上での土台となるような問いかけがなされている。この問いかけの質こそが、本作の最大の魅力であると、私は考える。
 

【感想】

個人的にどこが好きか、という感想を書く。

1.人物の描写

ここからは、自分が好きな所、という事になってしまうが、本作の魅力をもう少し語りたい。
ドストエフスキーは、小説という形式の良さを最大限に引き出している作家であると思う。小説の良さとは、内面描写を精緻に行える事、説明をいくらでも足せる事、の二つがあるのではないだろうか。
前者については『罪と罰』のラスコーリニコフの長い葛藤や思考に色濃く表れている。
後者についてはヒョードルの過去や登場人物の性格描写などが上手いなと思った。きっと共感できるキャラクターが居るはずだ。ロシア語が読めて、原文で読めたらなと何度も思ったが、残念ながらそんな日は来ないだろうな。
 
これは持論だが、「よい作品」は、その表現形式でないと味を失ってしまうほどに表現形式とマッチしている、と思う。シェイクスピアの作品が劇という手法でなく小説になってしまうと、解釈の余地が狭まってしまうし、『罪と罰』も映画になれば主人公の独り言がうるさすぎるだろう。
漫画のアニメ化で上手くいっている物や、実写化で上手くいくものもあるにはあるので、全てに当てはまるわけではなさそうだが。
 

2.物語の構成

後半のサスペンスの部分は、人物の関係が複雑に絡みあい、まるで推理小説のような様相を見せた。これだけの厚みのある話を構成したドストエフスキーには脱帽である。
ところで、『カラマーゾフの兄弟』は未完であったと聞く。しかし続編は書かれなかった。多くの読者は、「続編は必要ない。この作品は完成しすぎている」と褒め称えたそうだ。私もそれに同感だ。完成しすぎている。だが、あんなに長い作品であったにもかかわらず、もっと読みたいと思う気持ちもある。

文学は必要なのか

【はじめに】

今日の記事は、大学生が語るにはかなり大きなテーマかと思います。ですが本を深く読む上では欠かせない事柄です。「文学」という大きなものについて考える事は、ひとつひとつの文学作品をどう読むかということに直結するでしょう。
 

【そもそも文学とは何だろう】

まず前提として、当たり前のように「文学」という言葉が使われますが、文学って一体何なんでしょうか。

一番最初に思い当たるのは小説ではないかと思います。ですが文学はそれだけにはとどまらないと、私は考えています。

文とは何かといえば、それはことばです。言葉とは、音や文字などの記号を使って何かを表現する事です。しかしより重要なのは表現というよりも、その裏にいる人間なのではないでしょうか。言葉を使うのは人間だけである、と現代の言語学では考えられているそうです。だからこそ人間を表す言葉として「文」という一文字を使ったのかなーと、推測しています。

この人がどう考えているか、あの人はどう考えているか。そういった個々人の「魂」というか「精神」というか、「中身」と呼ばれるようなものを探っていくことで、人間の「中身」の普遍的な像を考えること。ひいては人間とは何かを見つけていく営み。これが私の言う「文学」です。

ですから音楽や絵画、人類の歴史や建築を研究することも文学と言えます。

文学部は人文学部とも言われることがありますが結局はどちらも同じことです。大抵は、人間とは何かを探るのが最終的な目標になるかと思います。

文学と似ている言葉として「哲学」があります。確かにこの二つは共鳴し合う部分があります。哲学も誤解されやすい学問ではないかと思っています(もちろん私が誤解していない保証はどこにもありませんが)。哲学とは、考える営みそれ自体であると私は思っています。小難しい哲学者の言葉を収集するのではなく、自分で考えようとする姿勢ではないか、と。いつか別の記事で哲学をしてみようと思います。

 

【文学は必要なのか】

はい、必要です。絶対に。

文学は不要だという風潮が強いですね、特に最近は。ですがそれは、文学部がフィクションを読んで感想を言い合っているだけの非科学的な集団だと思っているからではないでしょうか。

そうではなく、文学は非常に科学的なものです。「科学的」というのは、水が一気圧では百度で沸騰する、というような一般法則を作る事です。目の前の事実を見て、それが何を意味するか考え、ひとつの仮説を立てる。反証を探し、理論として形作る。これが科学です。文学はそもそもが普遍・一般を見つける営みなので、科学的な学問と言えるでしょう。

科学には答えがあるが文学には答えが無い、だから無用だ、という主張もあるかもしれません。私は、それは正直ナンセンスな主張だと思います。物理も化学も、別に答えがあるわけでは無くて、ただ公式が上手い事いっている、というだけだではないですかね。それで良いんです。暫定で良いんです。使えるんですから。それに、文学の世界にも間違いはあります。間違っていないものを集めることで、何が見えるかを捉えようとしています。

文学が科学的な学問だと主張しましたが、ではその科学的に検証された何かは役に立つのか。大いに役立ちます。というか、必要不可欠です。例えば文学が扱うテーマとして重要そうなものは、なぜ人は争うのか、人間にとって悪とは何か、良いとは何か、豊かさとは何か、幸福とは何か、、、などなど、思いつく物だけでも枚挙にいとまがありません。

 

【文学の課題】

ここまで文学を礼讃するような文章を続けてきましたが、文学にも課題・問題点はあると考えています。それは「ことばの限界」「論理の限界」「認知の限界」です。これは今、私が名付けました。ちょっとかっこいいですね(笑)。このテーマについても、こんど別の記事にしていきたいなと思います。

最高の作家5選

【はじめに】

自分の「文学論」とまでは言わないけれど、本に対する考え方を深掘りしてみたいと思ったので、今まで読んできた作品の中で「傑作」と呼びたいものをランキングにしてみます。

小説や文学などで、「どうしてこの作品がこんなに評価されてるの??」と思う事が、私は多いです。読書の幅が狭いせいなのか、ただの逆張り人間なのか。まだ大学生なのに、頑固じじいのような厳しすぎる視線を、文学作品に向けてしまいます(笑)。本が好きで、こだわりがある証拠かも知れませんね。友人と本に関することで議論になる事も多々あります。

よく友人には「小説は人によって好みがあるから」と言われます。確かにそうなんですが、「好きな作品」≠「よい作品」だと思うんです。※ここからとても抽象的な話になるかもしれません。読み飛ばしていただいてもよいです(笑)。

「好き」いうのは、とても特殊で、個別的ですよね。言うなれば、ある時代・ある個人の性(さが)に合っている、性癖に刺さっている、といった状態でしょう。それが悪いと言うのでは無く、自分の直感で好きと感じた作品は愛せばいいんです。推せばいいんです。しかしそれを「よい作品だ、神作品だ」と主張されると、違和感を覚えてしまうんです。

一方で「よい作品」とは、「傑作」なんです。一般的で、普遍的なんです。いつの時代、誰が、どこで読んでいたとしても刺してくる。これが傑作です。ここで注意たいのは「全員を刺す作品」と「全員に刺さる作品」の違いです。前者は物理法則のように皆の心を刺す傑作です。後者は「人気作品」とはいえるかもしれませんが、あくまで「人々に共有された好み・特殊」であり、傑作とは違います。

私の使う傑作という言葉と、世間一般で言われる「傑作」の言葉のズレを説明しておきたかったのです。私の言う傑作とは空想上のもので、実際にある訳ではないです、恐らく。世間の「傑作」は、私の言う傑作に近しい物のことです。完璧な文学は有り得ないでしょうから。

だから本当の意味で完璧な傑作というのは無さそうですが、それでも傑作に近しい物はいくらかあります。今日は、私が読書の中でみつけた「傑作」を、ランキング形式にしてみようと思います。

 

【第5位】

第5位は、シェイクスピア(1564-1616)の『リア王』。

 

イングランド国王であるリア王は、三人の娘に国土を相続しようとしていた。最も王を愛している物に、最も大きな土地を与えるという条件を示し、父親への愛を娘たちに訊いていく。長女ゴネリルと二女リーガンは美辞麗句を尽くし、王への愛を宣言する。王はこれを大変気に入り、遺産を与える約束をしていく。三女コーディリアは、王からの質問に "Nothing, my lord." と答える。意味は「別段何もございません、王様。」といったところだろうか。王は激怒し、コーディリアとの縁を切る。実は、コーディリアがこのように答えたのには理由があった。彼女には、本当の愛は言葉で表せるものでなく、また、愛は言葉にされる必要もない、という信条があったのだ。本当に父親を愛しているのは誰なのか。愛をテーマとしたシェイクスピア四大悲劇のひとつ。

 

『リア王』はまた別の記事を作ろうと思います。シェイクスピアの他の作品には、『マクベス』『ハムレット』『オセロー』『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』などなど、有名なものがたくさんあります。また、色々な作品でオマージュされていたり、現代でも上演がされていたり、世界中に研究者がいたりと現代でもその魅力は衰えません。古典だからといって読みづらいわけでもなく、純粋にプロットが面白いのでむしろ読みやすいと思います。おすすめはちくま文庫の松岡和子 訳です。シェイクスピアの『オセロー』は過去に記事にしているので、リンクを張っておきます。

bokunenjin.hatenadiary.jp

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【第4位】

第4位は、ショーペンハウアー(1788-1860)の『読書について』。なんと、哲学書です。普段哲学書は読まず、この本を手に取ったのも本当に偶然の出会いだったのですが、面白い主張がされていました。この本の主張を一言で言うなれば、「哲学書なんか読むな」という事です。この本は二作品を前提として書かれた一連のものだったと思います。もう忘れてしまいましたが。それぞれ『思索』『著作と文体』『読書について』という翻訳がされていました。『思索』で主張されていたことをざっくり書くと、「よく考える事、すなわち思索をすれば、ほとんどの人は同じ答えにたどり着く。だからといって思索をショートカットして他人から答えを得ようとしてはいけない。他人の思索を記憶することは化石を調査するようなものであり、本当に大切なのは自分の中に生きた考えを持ち続ける事、思索し続ける事だ」ということ。他の二部もこれらに関連するような内容で、非常に論理的で明快な主張がされていました。

内容が詰まっている割にページ数が少なく、エッセイのように読めます。哲学書であるにもかかわらず「哲学書を読むな」という主張をする、といったような自己矛盾が所々見られますが、概ね誤りがなく、専門用語が一切なく、そしてなにより面白い本でした。「哲学すること」とは何かを教えてくれる一冊です。

 

【第3位】

第3位は、宮沢賢治(1896-1933)の『やまなし』。小学生の国語の教科書にも載っている作品ですね。文章が簡単で読みやすいからと言って侮ってはいけません。宮沢賢治は生と死をテーマに扱う作品が多いですが、『やまなし』はそのテーマを感じさせないほど自然にそのことが表現されています。利己と利他、時間の流れ、命の循環、そもそも命とは何か、といったことを真っ直ぐに問い直す作品です。

 

【第2位】

第2位は、夢野久作(1889-1936)の『ドグラ・マグラ』。日本三大奇書とも言われる作品の一つで、この本を読んだものは必ず精神に異常をきたす、と言われていますね。この作品はグロテスクな表現や文体、プロットの分かりずらさ・分からなさに焦点が集まりがちです。そういった文章の技術的な点もこの作品の魅力ですが、この作品の本質はそこではないのではないのかなと私は思います。これはまた今度一つの記事にします。語れない事が多すぎる、そんな作品です。歌の部分はかなり読みづらく苦戦しました。私はyoutubeの朗読チャンネルからリズムを聞き取り、何とか読み切れました。ですが、読んでよかったです。まあ、また別の記事で。

 

【第1位】

堂々の第1位は、ドストエフスキー(1821-1881)の『カラマーゾフの兄弟』。言うまでもなく、傑作です。バイブルと言ってもいいです。長いことが唯一のが欠点かも知れません。途中に出て来る異端審問官の挿話の部分が最重要です。翻訳者は誰がいいのかという議論があるそうですが、私は原卓也さんの翻訳が好いかなと思いました。最初に手に取ったのがこの方の本だっただけですが、評判は良いようです。要約でも何でもいいので、死ぬ前に是非、何かしらの形で触れて欲しい作品です。

 

【さいごに】

今回は傑作という事で、客観的に多くの人を「刺す」であろうおすすめ本を紹介しました。自分の好みにぶっ刺さった本たちも、いつか紹介できたらなと思います。