BokuNenJin’s blog

英文学専攻の大学生。文学作品を自分なりに解釈して、ブログを書いてみる。

『Serial Experiments Lain』

『Serial Experiments Lain』は、1990年代末に公開された、アニメ作品とゲーム作品のタイトル。今日は、この作品を土台に自分が考えたことを書く。

 

ゲーム版は、おもに主人公のレイン(今回は、表記はこれで統一する)と精神科医の柊子の日記を見ていく、という珍しい形式になっている。YouTubeにゲーム版の動画がある。六時間ほどあるが、暇なら見て欲しい。見る人によって解釈が変わってくると思う。ゲーム→アニメの順番で鑑賞することをお勧めする。

 

またはこのサイトにデータが入っている。

lain game :: site A

 

今回はゲーム版を中心に見て行く。lainは日記形式のゲームなので、時系列が曖昧な事や、客観的な事実が分からないという特徴がある。だから多様な解釈ができる。今回はlainを観たうえで、「存在」と「人間とは何か」という二つのテーマについて「哲学し」てみようと思う。この二つのテーマは、倫理を考えるうえで重要なものとなるだろう。

 

【その一】

まずは、「人間」の方から。ひとりの人間とは何なのか、考えてみる。

 

1.肉体からのアプローチ

最も考えやすいのは肉体だろう。臓器や骨、筋肉などが思い浮かぶ。では髪の毛や死んだ細胞である角質もその人の一部と言えるだろうか?人間の食道は一本の管になっている。つまりドーナツのように穴が空いてる。そこに住んでいる腸内細菌はその人本人に含まれるだろうか?(腸内細菌は自分の細胞よりも"外側"にあるにもかかわらず、腸内細菌が居なければ人間は生きていく事は出来ない。)

 

私は、これらの物もすべて肉体の一部であると考える。

肉体には二つの側面がある。一つは実在としての肉体。もう一つは現象としての肉体だ。

 

実在としての肉体は、普段私たちが想像する、今この瞬間の細胞、骨、血液、毛などの物体の塊だ。こちらはイメージが付きやすいと思う。

 

一方で現象としての肉体とは何か。私たちの身体は、変わっていないようで日々変化している。5年もすれば細胞や骨、血液などの全ては入れ替わり、今のあなたはすべて消えているだろう。それでもあなたの肉体があなたの肉体であり続けるのは、肉体が現象としての側面を持っているからだ。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。

 

肉体の条件は、循環している事だ。肉体とは、単なる物質の塊ではなく、栄養素を取り込み、老廃物を排出し、全体としてバランスを取るシステムだ(世間一般で使われている定義と差支えがなく、明快な定義だと思う)。それが自立していれば一つの生命と言うことも出来る。

 

たとえ植物やクラゲのように脳を持たないような生物であっても、神経やその他の働きで循環が行われている場合は命として認められると考える。ただし、ここで言う「命」は何か有難いものだとか、権利があるものだとか、そういった文脈ではなく、あくまでも定義の話。これからの文章が論理的になる為の土台。

 

メタファーを使うなら、実在としての肉体は水、現象としての肉体は川である。

 

今日は「肉体」という言葉をよく使うと思ったので、ここを確認しておきたかった。今回は実在としての肉体を扱うが、現象としての側面がある事も気にかけたい。

 

2.精神からのアプローチ

肉体からの説明では不十分な要素がある。それが、「わたし」だ。一般的に「魂」とか「精神」とか「理性」とか言われるような、いつもあなたの(頭の)中でぶつぶつ喋っている「あなた」だ。思考したり判断を下したりしていると考えられている何か、だ。どこにあるのかよく分からないけど、確かにそこにあるような「何か」だ。伝わっただろうか。

 

今回はこれを「自我」と呼ぶ。言葉の使い方としてもふさわしい気がする。

 

先に言っておくと、「自我」に対する私の見方は、少し変わっている、のではないかと思う。だが、私は誤りのない確からしい仮説を用意したつもりだ。

 

肉体がはっきりと存在する(「実在」と呼ぶ)ものであったのに対し、「自我」は存在するかが曖昧である。確かにあなたはあなたの自我を認識できるし、私も私の自我をはっきりと認識できる。だが、客観的には確かめられない。「客観」が何を指すのかも微妙なので何とも言えないところではあるのだが。。

 

では、「自我」とは何だろうか。私なら「肉体が生み出す像」と定義する。スクリーンに投影される映像のように触ったり干渉したりは出来ないが、そこにあるかのように視えている。このメタファーならば肉体はフィルムだ。フィルムは触って干渉できる。

 

このメタファーは観客やスクリーンが何なのかという説明が出来ず、完全ではないのだが、イメージを伝えるのに役立つことを祈る。

 

このようにして考えていくと、現代の一般常識とのズレが生まれる。この仮説では、人間は自我無しでも動けるのだ。スクリーンが無くてもフィルムが回せるように。私たちは(自我で)考えて行動していると信じられている。だが実際には、行動した後で考えているのではないだろうか。

 

つまり、この仮説は自由意志を否定する。

 

私は、現時点では自由意志を完全否定できるわけでは無いが、一部の事象については確実に否定できる。例えば、野球のバッターは「打とう」という自我による意思・判断の前に神経が動き、バットを振り始めている、という実験があるそうだ。それから脊椎反射のような限定的なもの。

 

そして、私が自由意志を否定したくなる最も大きな理由は、生成AIにある。AIは、人間と同じような振る舞いをする。しかしAIは思考しているのではなく、過去のデータから確率を求めているだけだ。

 

例えばもし、人間の脳(脳に限らず、肉体)が過去の経験に基づいて神経の形を変えて学習・行動しているだけだとしたら、そこに自我が介入する余地はなく、人間の行動は肉体のみが決定しているという事にならないだろうか。自我は単なる像に過ぎず、行動に干渉する力はない。

 

これは、lainで言う所の思考ルーティンだ。思考ルーティンは肉体の方に記録として保存されているのであって、自我に記憶されているわけでは無いだろう。したがって、「思考」とはあくまでも神経物質の伝達に過ぎず、自我が葛藤を起こすようなあの感覚は後付けの像、おまけであると考えられる。

 

3.「人間」って何だろうか

このように、人間には肉体と自我という二つの側面から成り立っている。肉体は実在し、自我は像として存在する。どちらが人間の本質か、という議論はナンセンスで、どちらも人間の要素である。

 

これが、現在の私の、人間の捉え方だ。あまりlainの話は出さなかったが、確実に影響を受けているのではないかと思っている。

 

【その二】

次に、「存在」について。特に、「他者の存在」について。

 

1.死人とイマジナリー・フレンド

さて、次はもっとlainにフォーカスして、存在に関する面白いと思った箇所を具体的に取り上げてみようと思う。

 

Site B, Level 6: 柊子は、高嶋という上司から嫌がらせを受けていた。あるとき高嶋は自殺(?)をした。その後、カウンセリングをする柊子。柊子は、レインが自分の友達だと言っていた里美が、実際には存在しないいわゆるイマジナリー・フレンドである事を指摘する。レインは里美は存在すると主張するも、物証がなく、説得力に欠けていた。柊子はレインに、体を持って存在していないと、それは幽霊だと言う。レインは、「高嶋教授は存在しなかった?」と訊く。

 

レインも柊子も、他者(死人とイマジナリー・フレンド)の存在を証明する為の方法を持ち合わせていなかった。記憶はあっても、記録がない。記録はあっても、肉体はない。複数人が知っているからと言って事実とは限らない。

 

「客観的な存在」という概念を疑ってしまうような、そんなやり取りだったと思う。

 

2.他者は自我を持っているか

こうなってくると、「自分以外の者はアンドロイドのように自我を持たず、私一人だけがこの世界で自我を持っているのだ」という独我論と呼ばれるものを考える人も出て来るかと思う。

 

だが、これはナンセンスな主張だ。大前提として、独我論は論ではない。論とは他者への証明であって、他者を否定する論はあり得ない。

 

その上で、独我論は論じ得ない。どちらに証明することもできないから。

 

私の数少ない好きな哲学者の一人に、ヴィトゲンシュタインという人がいる。彼は主著『論理哲学論考』の最後で、「論じ得ないものについては、沈黙しなくてはならない」と書いている。

 

あとは、沈黙。

 

【あとがき】

lainは面白いと思った。色んな人が考察してるから、それを見るのもまた面白い。見るのに体力を使うが、見てよかったと思える作品。

 

今日は初めてブログ上で哲学してみた。哲学することは、思索(=よく考えること)に加えてそれを表現する事も含んでいると思う。思うままに表現してしまったので、だいぶ読みづらいのかもしれない。

 

そういえば、lainを観てから日記を書き始めるようになったのだが、日記は英語でdiaryと言う。またはjournalという表現もある。この二つの主な違いは、私的であるか公的であるかの違いだ。自分だけが見る「日記」であればdiaryだし、公開する「日誌」であればjournal、と言ったところだろうか。

 

私はdiaryを書くことにこだわりがある。誰にも見せないがゆえに、自分の本心を徹底的に書き出せる。自分を着飾る必要もなく、本当の事を書ける。ただし、誰にも見せない。ブログの「日記」はjournalということになる。

 

ゲーム版lainにおいては柊子の日記もレインの日記もdiaryであり、それぞれ"T da" 、 "L da" と表記されている。だからそれぞれの本心がありのまま書かれていると考えられる。